大学受験を全力で頑張れた人は社会に適合できる人だと思う

大学受験全般

色々考えてたら「大学受験を全力で頑張れる⇒社会に適合できる」という命題が浮かびました。

 

もしくは、大学受験に全力を出せるかどうかは社会に適合できるかどうかの1つの目安・ふるいになっていると思いました。

 

自分でいうと”痛い”ですが、私自身自らのことを社会不適合者として認識しています。

大学生活は留年1回・退学2回、大学卒業は厳しいと思いフリーターを一時目指しましたが1日か2日で辞めてしまったバイトが3つほど。

 

病院でうつ病診断をくだされたと思ったら、今度は発達障害を疑われADHD/ASDの診断がおりる。

悠

現在はまた懲りずに大学に入学し卒業を目指しています。

何も頑張れない私は自分のここ数年を振り返った結果、大学受験というのが1つの社会適合性チェックリストにあがりました。

 

そう思った理由をメモ程度ですがここに記しておきたいと思います。

スポンサーリンク

大学受験勉強そのものには大して意味がない

まず、大学受験それ自体にはほとんど意味はないです。

 

大学受験で扱う内容というのは間違いなく大学での学問につながるもののはずですが、入試問題及び入試対策の内容などを考えるとどうしてもパズルゲーム・暗記ゲームとしての印象が強いと思ってしまいます。

悠

難関大と呼ばれるところはその要素は小さくなっているとは思いますが。

私は別に数学科出身とかではないですが、特に数学なんかは大学数学と高校数学は大きく異なるものだと感じます。

 

物理なんか特にパズルゲーム感満載の問題が多いですし、世界史もセンター試験(大学入学共通テストになりますが)では世界史の全体の流れなんて分からなくても解ける問題がほとんどです。

 

一方で学問とは関係ない話にしても、ほとんどの人はどこかしらの会社に就職するとして、その会社では大学で学んだことや大学入試のための勉強というのを使うことはほぼ無いでしょう。

 

ではなぜ大学受験で頑張れる人が少なくないかというのは”いい大学に入るため”ですね。

そしてそれはなぜかと言ったら、”少しでもいい企業に就職したいから”という人がほとんどだと思います。

 

大学受験の勉強を面白いと感じる人は別ですがが、多くの人はそのように感じてはいないと思います。

面白くないと思っている受験勉強を上のような動機で頑張れるということが1つの才能であると私は思っているのです。

スポンサーリンク

ゴールが明確なら過程は気にしない人

大学受験に限りませんが、特に受験というのは最もゴールが明確なイベントの1つだと思います。

ゴールは”第一志望合格”。単純明快です。

 

多くの受験生にとってはそれが全てあり、逆にいうとそれ以外に対して注意が向かず視野が狭くなるとも言えます。

悠

私もそうでしたが大学に入った後にどうするかまでは考えない人が多い。

 

第一志望合格という明確な1つのゴールのためなら、受験勉強をつまらないと自分で分かっているのにも関わらず受験勉強をコツコツできるのです。

つまり過程は気にしない。目標達成のためなら過程は大した問題ではないのです。

 

それができている人、それをやり抜いた人にとっては「そんなの当たり前じゃん?」ってなるかもしれません。

でも私からしたら、それはとてつもなく不思議であると同時にすごいことであると思います。

 

私は過程が楽しそうでなければそれを始めることもできないし、過程が楽しくなかったらそれを継続することはできません。

そういう人間は少ないですが私の周りでもいました。

 

まぁただのわがままなのですがしょうがない。できないものはできない。

 

多くの人もやるべきことに対して「辞めたいなぁ」ということを”思っている”とは思います。

でも実際に行動に起こす人は少ないと思います。

 

これは私の話になってしまいますが、私は根性がなさすぎて大学卒業という目標があっても大学生活という過程がつまらないと思ったら大学辞めようと思ってしまう。

というか実際辞めてしまいました。

 

過程を気にしないというのは非常に重要な能力であると実感しています。

 

大学受験は勉強好き以外はいかに自分をだまして受験をゲーム化できるかが問題だと思います。

模擬試験はそのゲームを盛り上げてくれるための画期的な一要素。

 

また、いい大学に入ることの目的が良い企業に入るためだとしても、高校生のほとんどは”良い企業”なんて具体的に想像はつかないはずです。

 

でもその具体性が曖昧なものに向かって全力をだせるわけです。

これってよくよく考えたらすごくないですか?

 

とりあえず名称のある目標(東大合格!など)を定めてしまえば、その目標達成の後などのことは別問題となり、目標達成のために全力をだせるのです。

 

大学受験勉強をやってる最中に冷静に「なんでこんなことやっているんだろう…」と考えてしまったら終わりの始まりです。

”受験勉強を頑張る自分”に没頭しなければならないのです。

 

ではこれらのことが社会への適合度とどう関係するのでしょうか。

スポンサーリンク

社会的ということ

生活のためなら我慢できる

まず、自分のやりたい仕事ができるているという人は全く問題ないですよね。

好きなことをやれてお金も貰えるのであればほとんどの人は満足でしょう。

 

しかし実際、自分の好きなことを仕事にしているという幸せな人というのは少ないはず。

ほとんどは「仕事は嫌だけど生活のためなら仕方がない」という人だと思います。

 

ここでは”給料をもらって生活する”という目標のための過程を気にせず頑張れているということです。

自分の仕事はどのように役に立っている?

ですが、もう一つ別の意味での過程があります。

それは会社全体における過程としての自分の仕事のことです。

 

どういうことかというと、自分の仕事が会社全体、もっと言えば社会全体の生み出す成果のうちどこの過程なのかよくわからないということ。

 

私は以前、深夜の倉庫整理のバイトを1日だけやったことがあるのですが、そこでは自分のやっている仕事が全工程のどこの部分なのか最後まで知りえませんでした。

 

工場長(?)からしたら全工程を従業員が知る必要などないのです。

バーコードを読み取り、商品を箱に詰めてベルトコンベアで流すのですが、そのあとその箱がどうなるかは分からない。

自分の前の工程がどうなっているか全く分からない。

 

そのような過程を全く知りようのない場所で私は”やりがい”を感じ得ず、私は1日で辞めてしまいました。

 

この世は分業制で発展してきました。実際その方が合理的であるからです。

この分業制とやりがいの話は分業制の問題点としてよくあげられることなので今更なのですが、それを本で読むのと実感するのでは雲泥の差でした。

 

(勿論全員にあてはまるとは言っていませんが)大学受験も仕事も過程を考えたらかなりしんどいものとなりえます。

 

もしかしたら受験というシステムはこの社会的分業の世において”考えない”という考えを矯正してくれる、一番効果的な薬なのではないかと思ってしまいました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました