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大学受験を全力で頑張れた人は社会に適合できる人だと思う

大学受験全般

大学受験に全力を出せるかどうかは社会に適合できるかどうかの1つの目安・ふるいになっていると思いました。

 

”頑張れない自分”というのを振り返った結果、大学受験というのが1つの社会適合性チェックリストにあがりました。

そう思った理由をメモ程度ですがここに記しておきたいと思います。

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大学受験勉強そのものには大して意味がない

まず、大学受験それ自体にはほとんど意味はないです。

 

大学受験で扱う内容というのは間違いなく大学での学問につながるもののはずですが、入試問題及び入試対策の内容などを考えるとどうしてもパズルゲーム・暗記ゲームとしての印象が強いと思ってしまいます。

特に数学なんかは大学数学と高校数学で大きく異なるものだと感じます。

 

物理なんか特にパズルゲーム感満載の問題が多いですし、世界史も共通テストなんかでは世界史の全体の流れなんて分からなくても解ける問題が多いです。

 

一方で学問とは関係ない話にしても、ほとんどの人はどこかしらの会社に就職するとして、その会社では大学で学んだことや大学入試のための勉強というのを使うことはほぼ無いでしょう。

 

ではなぜ大学受験で頑張れる人が少なくないかというのは”いい大学に入るため”ですね。

そしてそれはなぜかと言ったら、”少しでもいい企業に就職したいから”という人がほとんどだと思います(その傾向は近年減じているけれど)。

 

大学受験の勉強を面白いと感じる人は別ですがが、多くの人はそのように感じてはいないと思います。

面白くないと思っている受験勉強を上のような動機で頑張れるということが1つの才能であると私は思っているのです。

ゴールが明確なら過程は気にしない人

大学受験に限りませんが、特に受験というのは最もゴールが明確なイベントの1つだと思います。

ゴールは”第一志望合格”。単純明快です。

 

多くの受験生にとってはそれが全てあり、逆にいうとそれ以外に対して注意が向かず視野が狭くなるとも言えます。

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私もそうでしたが大学に入った後にどうするかまでは考えない人が多い。

 

第一志望合格という明確な1つのゴールのためなら、受験勉強をつまらないと自分で分かっているのにも関わらず受験勉強をコツコツできるのです。

つまり過程は気にしない。目標達成のためなら過程は大した問題ではないのです。

 

それができている人、それをやり抜いた人にとっては「そんなの当たり前じゃん?」となるかもしれません。

でも私からしたら、それはとてつもなく不思議であると同時にすごいことであると思います。

 

私は過程が楽しそうでなければそれを始めることもできないし、過程が楽しくなかったら継続もできません。

ただのわがままなのですがしょうがない。できないものはできない。

 

多くの人もやるべきことに対して「辞めたいなぁ」ということを”思っている”とは思います。

でも実際に行動に起こす人は少ないと思います。

 

過程を気にしないというのは非常に重要な能力であると実感しています。

 

大学受験は勉強好き以外はいかに自分をだまして受験をゲーム化できるかが問題だと思います。

模擬試験はそのゲームを盛り上げてくれるための画期的な一要素です。

 

また、いい大学に入ることの目的が良い企業に入るためだとしても、高校生のほとんどは”良い企業”なんて具体的に想像はつかないはずです。

 

でもその具体性が曖昧なものに向かって全力をだせるわけです。

これはよくよく考えたらすごいことです。

 

とりあえず名称のある目標(東大合格!など)を定めてしまえば、その目標達成の後などのことは別問題となり、目標達成のために全力をだせるのです。

 

大学受験勉強をやってる最中に冷静に「なんでこんなことやっているんだろう…」と考えてしまったら終わりの始まりです。

”受験勉強を頑張る自分”に没頭しなければならないのです。

 

では、これらのことが社会への適合度とどう関係するのでしょうか。

社会的ということ

生活のためなら我慢できる

まず、自分のやりたい仕事ができるているという人は全く問題ないですよね。

好きなことをやれてお金も貰えるのであればほとんどの人は満足でしょう。

 

しかし実際、自分の好きなことを仕事にしているという幸せな人というのは少ないはず。

ほとんどは「仕事は嫌だけど生活のためなら仕方がない」という人だと思います。

 

ここでは”給料をもらって生活する”という目標のための過程を気にせず頑張れているということです。

自分の仕事はどのように役に立っている?

ですが、もう一つ別の意味での過程があります。

それは会社が動く一過程としての自分の仕事のことです。

 

どういうことかというと、自分の仕事が会社全体、もっと言えば社会全体の生み出す成果のうちのどこの過程なのかよくわからないということ。

 

トップの人間からしたら、会社のあらゆる全工程を社員が知る必要などないわけです。

自分の前の工程・後の工程がどうなっているか詳しくはよく分からない。

 

この世は分業制で発展してきました。実際その方が合理的であるからです。

この分業制とやりがいの話は分業制の問題点としてよくあげられることなので今更感がありますが、分業制では”自分が役に立っている感”を意識するのはより難しいものとなります。

 

でもそんなことについて考えて止まっていたら仕事は出来ませんし、お金も入ってこなくなってしまいます。

 

受験というシステムはこの社会的分業の世において”考えない”という考えを矯正してくれる、効果的な薬なのではないかと思ってしまいました。

コメント

  1. ボンキッキ より:

    あるブログで、大学進学と奨学金支給は甘やかしだという馬鹿なこと言うのを読んだことがあります。僕に言わせれば、決して甘やかしではありません。奨学金支給は、厳しい受験の対価です。
    むしろ中卒、高卒で働きに出る方が余程甘やかしだと思うのですが。いや、今は高卒の求人が最盛期の15%程で、中卒だとほとんどない。しかもかつて中卒で就く職種でさえ高卒にシフトしつつあります。

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