「数学なんか将来使わない!」
「古文なんて勉強して何の意味があるの?」
「そもそもなんで勉強しなきゃいけないの!?」
このような疑問を持つ人は世の中に数多といるでしょう。
何を隠そう私自身、中学二年生くらいまでそう思っていました。
まずいきなり結論から。
「学校の勉強が将来役に立つか?」という疑問への私の回答は「多くの人にとって、直接的に役に立つことはない」。
しかし、勉強をしておくと世界の解像度があがり、認識できる世界が変化し、そして人生がちょっと楽しくなる(これを”役に立つ”と表現するかは人による)。
だから勉強はしておいたほうがいい、というのが私の意見です。
…読んでいる方の多くは「???」って感じだと思います笑
私自身、この話題に関して説得力のある言葉でうまく説明できる自信がありませんが、取り敢えず思うところを思うままに書いていこうと思います。
数学って将来何の役に立つの?
”学校の勉強に何の意味があるのか”という話題においては数学という科目が格好のサンドバッグになっている印象があります。
確かに、ベクトルや微分積分など、将来どこかに就職したとしても、それらを使う場面というのは想像できませよね。
そして実際、四則演算より高度な数学を大人になってから使う人というのは、研究者などを除けばかなり限られるはずです。
では、なぜ数学の勉強をすべきなのか。
まぁ正直ほとんどの人は受験のためでしょうけど、受験勉強が将来役に立たないんだったら、受験自体いらないじゃん!ってなってしまいますよね。
学校の先生の中には「こういうところで数学は役に立ってるんだよ~」というありがたい話をしてくれる方もいます。
でも、数学が役に立っているところが自分に明らかに関係のない場所だったら正直どうでもいいですよね笑
私なりの答えは、冒頭でも申し上げたとおり(数学に限った話ではなく)、世界が広がるから。
もう少し詳細に言うと、将来においてあらゆる機会が増えるからです。
具体例を出します。
例えば高校生の方なら、微分積分とかを勉強していると思いますが、それらって小学生の時に習った四則演算ができなかったら絶対に理解できないものですよね。
これと同様に、微分積分が分からないとその先の世界が理解できない、というのは想像に難くないでしょう。
ここで「数学なんて今現在嫌いだからその先の世界なんて知りたくない」という人が出てくるかもしれませんが、高校数学が数学の世界だけに収まらないのが厄介なところなのです。
もし現在あなたが中学数学・高校数学を嫌いだとしても、将来(例えば)物理や化学、コンピュータサイエンス、脳科学、経済学などの他分野に心を惹かれる可能性は0とは言えませんよね?
これらの分野には数学が絡んできます。
もちろんこれらはほんの一部で、ほとんどの分野には数学が多少なりとも絡んでくると思います。
あなたがその分野に興味を持った時、数学ができないことが理由で挫折したらそれはなんだかとても勿体ないことのように思えませんか?
別にこれは「将来研究者になりたい!」という人だけに関係のある話ではないです。
皆誰しも人生で一度は”理解できる喜び”を感じたことがあると思います。
中学や高校で数学を捨てた場合、将来における多くの喜びが消失します。
勉強をしていると喜びが連続していくのです(それがどこまで続くかは人によるけど)。
例えば物理だったら、高校の微分積分が分かっていれば大学でやる物理(力学)の最初の方はスムーズに理解できます。
勉強を続けていけば、電磁気も理解できるようになっていき、”理解できる喜び”が次々に得られていきます。
経済学でも高校の微分が分からなかったら早々に躓いて嫌になってしまうかもしれません。その先に楽しいことがあるかもしれないのにも関わらず、です。
ちょっとAIのこととか知りたいな、と思って調べても高校数学が分からなかったらそこで終わりです。
…とまぁ上述したようなケースが山程あるわけです。
たまたま一時期数学が嫌いで数学を諦めたせいで、自分の興味を捨てざるを得ない場面がでてきてしまうのです。
また、これらは大学での勉強に限った話ではありません。
本をちょっと読んだり、テレビで観たことに少し興味がでて、調べてみたら数式がでてきた…
こんな時、数学を早々に諦めている人はここで終わりです。そこから世界は広がりません。
中学や高校の数学を諦めた場合、あらゆる事柄のスタート地点で挫折、もしくはスタート地点にすら立てないのです。
せっかく興味を持ったことでも、”数学が分からないから”というだけの理由で興味をいやいや捨てざるを得ない場合があるのです。
この話の残酷なところが、”数学を勉強しなかったことを未来においてしか後悔できないところ”なんですよね。
教科書レベルでいいので高校数学くらいは理解しておいたほうが、あらゆる可能性を捨てないですみます。これは断言できます。
古文をちゃんと勉強していれば……と思った話
今私達が使っている言葉は現在普及している現代日本語です。
古語で話す人はまずいないと思います。
なら古文を勉強する意味とはなんなのでしょうか?
私は古文はそこまで熱心に勉強したわけではありませんでした。
取り敢えず受験に間に合わせよう的なまぁいい加減な精神です。
しかし、大学に入ってから「もう少し真面目に古文を勉強していたらなー」と思いました。
大学生というのは自由な時間が増えます。
そしてその自由な時間で本でも読もうかと思う瞬間がそこそこの確率できます。
高校時代の友人はほぼ全員その傾向がありましたし、読書なんてどっちかというと嫌いだった私も大学に入ってからは読書をするようになりました。
私自身、特にジャンルを決めて読んでいるわけではないのですが、ふと「日本の古典を読んでみたい」と思った時がありました。
現代語訳だとどうしても原文の表現が削られてしまうと思ったので、できれば原文で読みたいと思いました。
そして、いざ読んでみるのですが……分からないところが多すぎる。
たまにわからないところがでてくるとかならいいのですが、あまりにも頻繁に「ここどういうこと?」という部分がでてくるとストレスが溜まって読むのに疲れてしまいます。
そして結局現代語訳で読むのが常となってしまいました…
調べながら原文で読めばいい話なのですが、そこまで根気が無いので現代語訳に逃げてしまいます。
私の友人の1人は余程古いものでなければ、基本的に古典を原文で読むのですが、それが本当に羨ましい。
私が江戸時代の本を現代語訳で読んでいるときも「江戸時代なんて最近なんだから原文でいいのでは?」という言葉を彼からもらいました。
確かに江戸時代の本はかなり読みやすいのですが、それでも古語に抵抗があるのかどうしても現代語訳に逃げてしまいます。
こういった抵抗を高校時代に払拭していたら、もっと楽しい読書ができたのになぁと後悔しています。
かといって今から古文を勉強しようという気にもなれませんしね。
本好きでない私が古典に手を出したくらいですから、本好きの方は将来1度くらい古典に手をだそうと思うものなのではないかと(勝手に)思っています。
その時の楽しみの度合いが過去の勉強量に影響を受けます。
古文をちゃんと勉強していたら楽しめた世界というのが存在したわけです。
その世界に入り込めないことを私はとても悲しく思っています。
古文だけでなく、気づかないだけで私は色々な”楽しみ・喜びの機会”を失っているのでしょう。
勉強をしないというのはこの”楽しみ・喜びの機会”を自ら手放すという行為なのです。
※どうでもいいですが方丈記が結構好きです。短いので是非読んでみて。
勉強はしなければならないもの?
勉強なんて大嫌い!勉強なんて一生関わらないつもりだ!と現在思っている方にはここまでの話は全く響かなかったと思います笑(というかここまで読んでいないかも)
私も中学二年生までそう思っていたので気持ちは分かります。
でも将来のことは本当に分からないです。
私なんか中学の時の音楽の授業ですら、真面目に受けておけばよかったとか思っているくらいです笑
学校の先生方は「なんで勉強しなきゃいけないんですかー?」という質問にどう答えているのでしょうか。
私、気になります。
「勉強はしておいたほうが良い」というのは個人的に納得できるのですが、「勉強をしなければならない」というのはどこか引っかかってしまうんですよね。
でも「勉強はしておいたほうが良い」だと多くの生徒は「じゃあしなくてもいいんじゃん!」となるでしょうし、うーん…って感じ。
大人が「勉強しなさい」というのは、殆どの場合いい大学に入るためとか、そこからいい就職先に行けるからとかそういう意味が含まれることが多い気がしますが、勉強ってそんなしょうもないものじゃないと思います。
「勉強をすると人生がちょっと楽しくなる」と言いたいところですが、その楽しくなる瞬間は(勉強嫌いの人にとっては)勉強しているその時ではなく未来なので、やはり説得力のある話をするのは難しいですね。
とここまで書いて今、勉強を諦めても諦めた人の多くはそんなに困らないのでは?と思ってしまいました。
なぜなら、勉強を辞めることでかなり多くの楽しい機会を自ら捨てることになりますが、多くの場合その機会を捨てたことにすら気づかないので……
それはそれで幸せなことかもしれないですね。
ちなみにここまでめちゃくちゃ偉そうに「勉強はしたほうがいいよー」ということを話してきましたが、私は勉強が嫌いです。
はい、自ら機会を捨てている愚者です。皆さんは愚者にはならないでください。
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