いじめが起きる時の条件を考える場合、余りにも変数が多いでしょうから「これらX個の条件が揃ったらいじめが起きる」と断言することはできないとは思います。
それでも各変数について考えるのは意味があると思います。
私自身、小中高と学校生活を振り返ってみるとクラスで特に目立ったいじめは無かったかなという感じですが、それで終わってはつまらないので先日、小中高のクラスがどんな雰囲気だったかを思い出してみました。
すると、ふと高校1年生の時のクラスだけ少し異質だったと感じました。
あのクラスだけは何があっても、いじめの起きる可能性が微塵も考えられなかったのです。
クラスの中心はだれ?
高校時代の友人と会ったときにクラスのカースト概念の話になりました。
その時に「カーストって言えば、うちのクラスの中心って誰だった?」という疑問が生まれましたが、我々はクラスの中心人物が誰だったかをあげられませんでした。
そして結局、クラスの中心などいなかったという結論を出したのです。
クラスの中心人物を答えられるというのは、スクールカーストが出来上がっているということでもあります。
しかし、そもそもスクールカーストという概念自体がそのクラスには存在しませんでした。
問題児たちの存在
あのクラスには問題児(先生目線での問題児ですが)が結構いました。
・何度注意されようとほぼ毎回授業中に眠る者
・何度怒られようと数学以外の授業でも数学の内職をする者
・高確率でお昼から登校、酷いときには5限投稿する者が数人
・何度注意されようと提出物を出さない者が10名程度
どれも可愛いもので、特に提出物に関しては問題ですら無いように思えますが、私の高校はいわゆる自称進学校で、そのことに大して普通に教師がマジギレしてました()
さて、このように当時のクラスには問題児が複数人いたわけですが、もしも問題児の数が少なかったら、例えば一人だとしたらどうなるでしょう。
その人は間違いなくクラスで浮いた存在となり、その最悪のケースとしていじめが発生しえます。
いじめというのは主に周りと違う人間がターゲットにされます。
その”周り”というのは結局クラスの空気のことであり、周りと違う人間が増えるとそれは最早”周り”と違う人間ではなくなります。
それまでの普通の空気が破壊されれば、また新たな”普通の”空気が形成されるのです。
その点、あのクラスの普通の空気とは問題児の存在も含めての普通でした。
みんな好き勝手やるように
提出物を出さない生徒が10人超と書きましたが、勿論最初からそうだったわけではありません。
流石に高1の最初から学校に対して反抗的な人がそこまで多かったらおかしいです。
あのクラスの独特の雰囲気を推し進めた原因は問題児達の成績にあると考えています。
実は、問題児達の中には学内トップ層の成績を持つものが何人かいました。
学校の些細な提出物などは無視してどんどん自分で進めていたのです。
それにより、今まで穏やかだった他の生徒達も「あれ、提出物より自分の勉強に時間を使ったほうが良いんじゃない?」との考えに至り始めた、という流れがあったように思います。
ここで言いたいのが、提出物云々は話の本質ではありません。ただのきっかけです。
大事なのはそれによってみんなが好き勝手やるようになったということです。
提出物問題に始まり、クラス全体に「人に迷惑かからなければ何しても良くない?」みたいな空気があったと思います。
多少変な行動・発言をする人がいても「あいつはあいつ」で終わりです。
受け入れていたかは知りませんが排斥はしませんでした。
カラオケの後で5限から登校してくる生徒がいた時も「お、来たんだ」くらいだったと思います。
その後は特に目立った反応なし。
全体をまとめる人なんて一人もいません。
協調性はありませんでしたが、同時に同調圧力もありませんでした。
カースト上位に立ちたがっている人はいた
入学したての時期では、スクールカーストをかけた戦いが自己紹介の時点から始まっています。
そして数日経つとだんだん分かってきます。
スクールカースト上位に立ちたがっている人が誰なのか。
実は、あのクラスにもスクールカーストの頂点に立ちたがっている人はいました(勿論本人はカースト上位に入るぞ!とは考えていないでしょうが)。
彼はルックスもそれなりにイケていて、笑顔も眩しく、活発でハキハキとした喋り方が特徴的な男子。
入学初期から色々な人に話しかけ、女子にも積極的に声をかけ、全体に呼びかけたり、ギャグをいれてみたりとなかなかに目立っていました。
全体をまとめたがっているんだなとは簡単に分かりました。
ですが、その試みは失敗に終わりました。
なにせ入学初期から問題児が数人いて、彼らは自分の意思を明確にしてそれを貫いています。同調圧力をかけるのは難しいです。
そして結局、どちらかと言えば問題児達の方に人は集まっていたとように思います。
というのも彼らは悪目立ちこそしているものの、周りの人間とも積極的に関われていたのです。
彼らは別に友達を作りたくないわけではないのです。
ただ人に迷惑をかけない範囲で自分のしたいようにしているだけで、周りとの壁は作っていません。
しかも、前述の通り勉強の出来る人もいましたから、勉強を聞きにいく人もいたりと他者との交流は活発でした。
やがて全体をまとめたがっていた人は無理をすることをやめたのか、ただのクラスのメンバーの一員となりました。
多様性とはあのクラスのことだったのではないか
まとめる人がいないと書くと、何だか協調性の無いクラスに聞こえるかも知れません。
実際協調性は無かったのですが、それは仲が悪いことを意味しません。
休み時間には何人か集めてトランプをやったり、サッカーしにいったり、放課後には残って勉強を教え合ったり、交流は普通にありました。
そりゃ人間ですから反りの合わない二人みたいなのは有りましたが、だからといって何かが起きるわけでもなく。
散々言われている多様性ってあんな感じなんじゃないですかね。
色んな人がいて取り敢えずそれぞれの存在は確認。
無条件に肯定するわけではないけど、排斥もしない。
そういった環境こそが、個が1番伸び伸びできる環境だと思います。
終わりに
あの多様性を帯びたクラスが形成されたのはまぁ運です。
簡単にまとめると最初の段階で個の強い人間が数人放り込まれていて、周りもそれに影響を受けました。の一言で終わりますが、なにせこれはサンプル数が1で私のバイアスもかかっています。
そもそも個の強い人間なんて定義するのは難しいと思います。
クラスを決める時に、「個の強い人間をa人いれて…」なんてできないでしょう。
先生の苦労が伺えますね。
学生の方は是非自分のクラスを観察してみてください。
人間観察って”痛い”かもしれませんが、真面目にやると結構楽しいものです。
(この記事で言及したクラスについてのお話はこちら)
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