なんとなく教師を目指す人、私の周りでもいます。
これ、本当にやめてほしい。教師という職の重要さについて全く考えていないのでしょう。
私は教育については多少関心がありますが、その中でも教師という職業について思うところは沢山あります。
今回は教師がどれほど重要な、そして責任感の必要な職業であるかを述べていきます。
教師の給料は本来医者と同程度で良い
私は教師という職業は医者と同じくらい重要だと思っています。
本当に有能な教師が教育に携わり、生徒を育てていくのだったら給料も医者と同じくらいでいいと思います(今の教師に対して適用させるべきとは思っていません)。
教師というのは生徒の未来を簡単に左右出来てしまう立場なのです。
悪い意味では洗脳できると言ってもいいです。
特に小学生にとって、教師は家庭外における身近な大人の筆頭に上がるでしょう。
幼い頃(下手したら高校生くらいまでの時期まで)は大人というのは絶対的な存在に見えます。
多感な小学生は、教師といういかにも偉く権威のありそうな大人の発言には簡単に影響を受けてしまうものです。
幼い頃の体験ほど記憶に残りやすく、後の人生に影響を及ぼします。
教師は自分の行動、発言の一つ一つに細心の注意を払うべきなのです。
未来を左右するというのであれば高校教師もその例に漏れません。
進路を決めるにあたって、「ここの大学なら受かりそうだからここを受けなさい」などというふうに生徒の特性を無視した助言は助言とは言えません。
また、進路が決まっていない生徒に様々な選択肢を教えてあげるのも高校教師の仕事です。これには知識が必要です。
模試を受けさせ、その模試の偏差値に合致する大学をとりあえず薦めておくのはやめてほしいものです(自称進学校なんかだとそういうことは普通にあります)。
関連:自称進学校に通っている人に伝えたいこと
教師も医者も人の将来に大きく影響を与える存在です。
人格形成において重要な幼少期~青年期に渡ってずっと教師という存在と付き合っていくわけですから、人生全体への影響度でいったら教師の方が上かもしれません。
教師には人の人生の行く末を握っていることを自覚してほしいです。
教師は博士持ち以外やるべきではない
高校という機関では生徒は勉強をやらされますが、ここでの勉強は”受験のための”勉強になりがちですが、本来は違うはずです。
高校での勉強は学問の橋渡しという側面があります。大学での勉強とのスムーズな接続を念頭に置くべきです。
ただ単に受験勉強を教えていればいいわけではない。
少し学問チックな内容に触れるにあたり、大した知識もない学部卒の教師じゃ内容の深掘りはできません。
研究をしてきた人間、それも博士課程修了レベルの、学問を分かっている人間が高校の内容を教えたら教え方は全くもって異なるものになるでしょう。
その本質的な授業を通して、未来の研究者が生まれるかも知れません。
今の仕組みだと本当に勉強のできる人は教師にはならないのです。
優秀な人は研究の道に行き、実際の教育現場には携わることはありません。
博士課程終了者の進路の一つとして高校教師を設置すべきです。
知らない方も多いかも知れませんが、博士課程終了者はフリーターや無職になる人も結構いますのです。
企業は学部卒・修士卒を好んで採用する傾向にあるので、博士課程修了者の就職率はそれよりも低くなっています。
実際に博士取得後、ポスドクなどを経て最終的に大学教員になる人は14人に1人というデータもあります。それほど過酷な道なのです。
せっかく研究に携わってきた貴重な人材なのに、有効活用されないのはあまりにも勿体無いです。
残念ながら職がありませんでしたという人でも、高校教師として働けるようになる制度があれば研究で得た専門的な知識は生かされますし、それは本人にとっても教育現場にとっても良いはずです。
さて、この意見に対して「教師は人間的にも優秀でなければならない、教育研修はしなくていいのか」という反論があるでしょう。
しかしながら、教員免許の有無と教員の質の差はかなり小さいという研究もあります。
これは驚くべきことかも知れませんが、それは我々が、教師になるためには教員免許が必要だと思いこんでいるからであってその間の因果関係が担保されているわけではないのです。
<参考書籍>
この本の中でも述べられていますが、教員の質の向上のために参入障壁の撤廃すなわち教員免許制度を廃止するべきです。
大した知識も無い人が教師になって生徒に勉強を教えているのはおかしいです。
優秀でない人が人にものを教えるなどという行為をするのはやめてほしいと思います。
教師には人生経験の豊富さが必要
これに関しては曖昧な表現となってしまいます。
「人生経験が豊富ってなんだよ!」って感じですよね。
ただ、何の苦労も挫折もなく平和な人生を送ってきた人が教師になっても、生徒の深刻な悩み・苦労などを理解するのは困難を極めるはずです。
人間は自分の経験していないことを理解するためには無限大に等しい想像力を要するからです。
単純な例で言えば、誰かが骨折して「痛い痛い」と叫んでいた場合、あなたに骨折の経験があればその痛みを(部分的にせよ)理解できます。
骨折の経験がない人からしたら、その痛みを想像するしかありません。
単なる想像によって痛みを理解できるのなら、世界はもっと平和になっているでしょう…
経験したことでさえ100%理解することはほぼ不可能なのに、経験していないことをどうして理解できるでしょうか。
人生経験の豊富さに基準をつけるのはほぼ不可能ではあると思います。
ですから明確に、この経験のない人は教師になるべきではないとは言えません。
しかし、せめて生徒が本気で苦しがっている時、その理由が全くもって理解出来ないものだったとしても想像力を最大限に発揮して”経験した状態”への近似を全力で試みて欲しいです。
生徒の苦しさが理解できないのは、生徒がおかしいからではなく自分が経験したことのない苦しさだからだということをまず認めるべきなのです。
生徒が苦しんでいるということは事実なのですから。
誰が教師になれる?
ここまで細かく教師に求めた場合、じゃぁ誰が教師になれるんだ?っていう感じですよね。
しかし、本来教師とはその程度の認識でいいのです。というかそれが目指されるべきです。
たいして能力のない人間が教師になり、何百人もの生徒の潜在能力をつぶしていくのは最悪です。
前述したとおり、博士課程修了者の採用を前向きに検討すれば人員も確保されるはずです。
教育への投資は日本の未来への投資となります。
教育者としての素質のない人間が教師になるのは、日本全体にとっての損失となるのです。
<関連書籍>
コメント
そんなに優秀な人が目指すほど教師という職業に魅力があるのかが問題ですよね
優秀な人は基本的にどこからでも欲しがられますし
多少はいたとしても全く数が足りるとは思えませんし