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うつ病になって良い意味で変わったこともありますよというお話

健康・発達障害

当然ですが、うつ病になって本当に良かったなぁ!と手放しに喜ぶ、ということはないでしょう。

また、色々(精神とか諸々)良くないからうつ病になるわけなので、うつ病それ自体が良いこともまずないです。

 

しかし、うつ病になったことで変わったこと、それも良い意味で変わったことというのがあるのも事実。

 

一言でまとめるとそれは”人への寛容さ”です。

今回はそのことについて述べていきます。

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人に寛容になれる

うつ病といっても色々種類があるでしょうが、私の場合は考えてもしょうがないことをずっと考えてしまいます。

 

しかし、考えたところで答えなんてでないのです(そのことも分かっているが考えてしまう)。

特に、生きるとか死ぬとかのそういった根源的なことに関しては考えるだけ無駄です。

 

何もかも意味のないものに見えます、というか実際全部意味のないものだと思っています。

 

一人でひたすら色々考えていると次第に実生活に響いてくるようになります。

(その詳しい話はこちらで↓)

 

そのうち、自分が酷い状態になっていくだけでなく、その自分の酷い状態に苛立って他人が本当に憎らしく思えてきます

 

なぜ自分はこんなに苦しいのに周りの人間は楽しそうなのだ、と。

実際、私が大学不登校になった理由の1つにそれがあります。

大学で笑顔の人間を見ると本当に腹が立って全員殴りたくなりました。

 

そんな辛い気持ちを持ちつつ病院を訪ねてみれば、待っていたのはうつ病の診断。

 

うつ病というのは別に珍しい病気でもなんでもないわけです。

病院に行って診断とかされていないだけで周りにもうつ病の診断基準を満たす人は結構いるはず。

 

それなりにみんな悩みながら生きている、その当たり前のことを改めて気付かされます。

 

多少苛立つような人間がいても「この人も色々考えて辛いから周りにあたっちゃうんだろうな」というふうに勝手にいいように解釈するようになります。

 

他人に寛容になるのです。

害悪な人に対して「まぁそういう人もいる。しゃーない。」で済ませられます。

 

これが果たして良いことなのかというと人によりそうですが、自分にとっては良いことのような気がします。

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あまり他人のことでイライラしたくないので。

知識の広がりが寛容さを増す

人間は自分のことになると頑張ります。

 

誰かがうつ病とかになっても、その人が自分と余程関わりのある人とかで無い限り、わざわざうつ病について調べたりしませんよね?

 

しかし、自分自身がうつ病になったら話は変わります。

私自身、自分がうつ病であるという診断を受け、薬をもらった時にはまず薬に興味を持ちました。

 

うつ病の薬は脳に働きかけるものなのだろうとは知っていましたが、うつ病診断以前に知っていたのはそれくらい。

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神経伝達物質の再取り込み抑制が抗うつ薬の主な役割。

 

そして脳の方にも興味が出てきます(これは私の発達障害とも関係しますが)。

実際、私は大学の講義で統合失調症や発達障害に関する講義を履修選択しました。

 

これらのことで単純に自分の知識の幅が広がるという自己満足に浸ることもできますが、この知識の広がりは寛容度のますますの向上につながりました。

 

例えば脳や心に問題がある場合、外見だけからはその人が脳・心にどのような問題を持っているかは分かりません。

 

おかしい人(主観的な”おかしい”ですが)がいても「もしかしたら脳、心の何かしらに問題があるのかもしれない」とまず思います。

 

「それはあまりにも大げさだ」と思われる方が大半でしょうが、例えば発達障害なら軽度のものも含めればそこまで珍しくも無いです。

それ以外でも、パーソナリティ障害なんかは広範ですから社会生活に支障の出ている人で何かしら当てはまるという人は少なくないでしょう。

 

ただ、そのような発達障害・精神疾患というようなカテゴライズ云々以前に”自分には理解できないような人(物・コト)の存在は至極当然”という考えがかなり強くなりました。

 

別に理解を最初から放棄するわけではありません。

しかし、全力で歩みよってもわからないものはわからない。そしてそれが普通なのです。

分からないということ

養老孟司氏の有名な著書、「バカの壁」のまえがきにこのような文章があります。

もともと問題にはさまざまな解答があり得るのです。そうした複数の解を認める社会が私が考える住みよい社会です。でも多くの人は、反対に考えているようですね。ほとんどの人の意見が一致している社会がいい社会だ、と。

 

多くの人が「はい、そうですね」って感じになると思いますけど、「はい、そうですね」と思うこととその思いが形になることの間には大きな隔たりがありますよね。

 

この”複数の解を認める社会”が、各々が収まるべきところに収まりやすい理想的な社会なのだろうなとは思いますがまぁ実現は無理でしょう。

 

寛容という言葉を無理やり使えば、解に対して寛容ということですが、一体どこまでの寛容が寛容の範疇として認められるのか。

犯罪にも寛容になれというのか。それが違うとしたらその基準はどこに引かれるのか…

 

もう何もかも分からない。

 

ただ言えることは”分からないものは分からない”のほんの一部が分かったという体験獲得の一助をうつ病が担ってくれたということ。

1つ成長できたのでした(ということにしておく)。

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