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発達障害者が理解されないのは当然。社会に救いを求めてはならない。

持論・体験

発達障害者への理解を深めようとか、発達障害者も生きやすい社会を目指そうとかしばしば見かけますが、正直あまり好きではないですね。

 

私自身、発達障害の当時者ですが社会から「こういう人もいるんだな」という理解を仮に得られたとしたら、勿論嬉しいとは思います。

 

ですがそんなのは絶対に無理だと思っています。

だから私は”発達障害者にも優しい社会を!”的な活動をあまり健全な心で見ることができません。

少なくとも私はそこまで社会・人間に期待をしていない。

 

今回はなぜ私がこのような考えを持っているかをお話しようと思います。

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そもそも他人のことなんて分からない

そもそもの前提として誰もが他人のことなんて本当は全然分かっていません。

 

分かろうとする努力は勿論素晴らしいことですし、意味のあることではあるとは思います。

しかし、現実は厳しい。

 

相手が何かに苦しんでいた時、自分もそれに苦しんだという経験があれば、共感できる可能性は大きくなりますが、それでも完全に理解するのは不可能です。

 

簡単な例ですが、例えばあなたの隣の人がお腹が痛いと言って苦しそうにしていた場合、あなたにも腹痛に襲われた経験があれば少しは苦しみが分かります。

 

しかし、その痛みが今まで自分の感じた痛みより大きいか小さいか、またその痛みの種類(チクチク、ズキズキなど)はどのようかなんて実際は分かりようがありません。

 

骨折だと共感を得られる数はもっと少なくなるでしょう。

私なんかは骨折の経験がありませんから、骨折の痛みがどれほどのものかというのは想像すらできません。

 

発達障害だったら共感を得るのはさらに難しくなります。

腹痛・骨折ですらそんなものなのにどうして発達障害者ではない定型発達の人が、自分に全く経験の無い発達障害者の感覚を分かりえましょうか。

 

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発達障害への興味

発達障害者に対する理解を!とか言っても、そもそも基本的に発達障害なんてほとんど誰も興味ないです。

悠

興味あるのなんて発達障害の当事者か医者・研究者か極々少数の物好きだけ。

 

興味のない対象に対して興味を持てと言っても無理でしょう。

そんなに人間単純じゃない。

 

例えば、「選挙に行こう!」「若者は政治に興味を持とう!」とは散々ネットやテレビでみるとは思いますが、若者の投票率は依然として低いままです。

 

このページをご覧になってくれている人というのは発達障害に多少は興味のある方でしょう。

でも、その他の病気はどうでしょう。

 

若い方なら、例えば認知症や糖尿病などは何が原因で起こる病気なのか、どういう治療が行われるのかというのはふわっとしか答えられない人がほとんどだと思います。

 

私自身、発達障害の中でも自分に関係のあるASD/ADHDの知識は多少あるとは思いますが、LD(学習障害)などその他の発達障害に関しての知識はほとんど無いようなものです。

 

芸能界に全く興味のない人、スポーツは全くわからないという人など色々いると思いますが、発達障害なんていったらそれはもう興味のある人なんて限られて当然です。

見た目じゃ分からない

身体障害者の方で、例えば足を失ってしまわれている方なら見た瞬間に「大変そうだなぁ」ということは感じると思います(勿論どれほど大変かは理解できないが)。

 

しかし発達障害者の場合は見た目は定型発達者と何ら変わらない風貌をしています。

そうすると大変さは伝わりにくい、というか見た目だけでは大変さは全く伝わりません。

 

両足持っている方にとって歩けるのが”当たり前”でも、そうでない方にとってはそれは全くもって”当たり前”ではない。これは多くの人がそりゃそうだとなるだろうと思います。

 

これと同様に、社会人にとって時間を守るのは”当たり前”でもそれが当たり前にできない人間は存在するのです。

 

多くの人は「そんなの甘えじゃん」って思うかも(それはそれでしょうがないと私は思ってます)。

 

私自身、一般に共有されている”当たり前”には何度も驚愕してきました。

 

大学での私の話になりますが、私は出席点のある授業がとても苦手で何回も単位を落としています。

そしてある時同じクラスの人から「毎回出席するだけでいいのになんで来ないの?」と言われた時は言葉に詰まってしまいましたね笑

 

悠

その発言に一ミリも悪気がないことは私も分かっています

私にとって、試験やレポートよりも毎回講義に出席することのほうがはるかに難しいので、それを「毎回出席する”だけ”」と表現したのに驚いてしまったのです。

 

そして、どう説明したらこの感覚のギャップを共有できるんだろうと数秒考えましたが結局何も返せず…

 

見た目に全く問題のないことから、同じ感覚を共有していることが前提とされるのです。

足を失ってしまっている方に向かって、「なんで歩かないの?笑」とは聞かないはず。

 

当たり前のことを当たり前にできる人と、そうでない人との間の感覚ギャップは埋めるにはあまりに大きすぎるのです。

 

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社会に頼るという考え

以上のことから、私は発達障害者の辛さ・苦しさを社会や他人になんとか理解してもらおうと頑張ることはしません。

 

現時点での私の考えですが、何より重要なのが「自己対処」です。

周りが向こう側からなにかしら良い作用を働きかけてくれるという考えは一回捨てる。

 

現在の環境にどうしても適応できなかったら、環境を完全に変える。

周りと同じようにできなかったら、同じようにすることをきっぱり諦める。

 

ただし、社会・他人に救われるということをやめることと誰からも全く理解されないということはイコールではありません。

 

今はいなくてもいつかあなたを理解してくれる人が数人くらい現れるかもしれません。でもその数人で十分だと思います(というか数人程度で収まると思う)。

 

発達障害は社会的生活を営むという面においては正直大きなハンディキャップだと思います。

自分の特性と環境を自分でうまくすり合わせていく(このすり合わせが一般の人より難しい)ことが、(少なくとも私にとっては)大きな大きな課題なのです。

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昨日がカブトムシの話だったので昆虫繋がりで今日はセミの話。セミというと幼虫として土の中に数年間ももぐっているのに成虫としては1ヶ月程度しか生きない儚い存在というイメージが強い。人間は仮に大人を20歳としてもそこからさらに60年くらいも生きる。これだとなんだか一生懸命に生きる感がでてこない。土の中に数年間いて成虫として1ヶ月しか生きられないと、なんだかその1ヶ月は全力で生きられそうなのだ。セミと比べると人間は大人になってからの時間がそれまでの時間よりも長過ぎる。惰性で生きてしまうのは仕方ないと思うのだ。(2020.3.19)

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